自・民、示さぬ「国の姿」(8/1朝日新聞朝刊)
自民党のマニフェストが発表され、民主党の分とそろったことに関する1面記事の中見出しだ。
「普通の国」 「質実国家」 「小さくともキラリと光る国」・・・・・・。細川連立政権が誕生した93年当時は、政党や国会議員が望ましい国の姿を言葉に託そうと競った。その頃も「改革」が叫ばれていたが、その末にどんな国を目指すのかも盛んに語られた。
この指摘は正鵠を射ている。個別の具体的施策を競うことも必要だが、その結果を何を目指すのか、その必要性は国政選挙公約に限ったことではない。
・・・・・・政策を実現させて、では日本はどんな国であろうとするのか。その鳥瞰図も見たい。
磯貝秀俊と山口博敬による記名記事は、上のように結ばれている。ただ単に「も見たい」で結んでしまったのでは、弱過ぎる。昨今取りざたされるメディアの劣化の一端だろうか。
概念レベル最上位の目標なり目的を掲げる事無くしては、個別施策の良し悪しを論ずることは不可能なのだが・・・。
政策に限らず、設計や計画を論理的に組み立てる場合、必ずトップダウンで始めなければならない。先ず納得できる、最も良いと思える目標・目的を掲げる。
施策・政策などは手段である。実現すべき結果、すなわち目標・目的(の一部)を想定することなしに手段が勝手に湧いて出る事は在り得ない。明示的に目標・目的を掲げていなくても何らかの手段を思いつく場合、無意識であるかもしれないが、何らかの結果を期待してるはずだ。
次に、ボトムアップで検証する。
思いついた手段以外に、同じ結果を得られそうな別の手段も存在し得る。また全ての手段には、期待した以外の結果・効果、すなわち副作用が在り得る。期待した結果を最も効率的に得ることができ、好ましくない副作用が無いか最も少ない手段、それが選ぶべきものだ。また、1つの目標・目的を達成するために必要な手段の数が多過ぎるのは、何か間違っている(例:副作用を相殺するために、別の手段が次から次に必要になる)。
現実には、手段⇔目標・目的の関係が多段階に及ぶ場合が少なくない。
概念レベルの最上位の目標・目的を実現するため、直接的な手段がいくつか必要になると先ず思いつく。しかしそれら手段は、未だ誰もが同じ理解に達し得るだけ充分に具体的ではない場合が少なくない。従って、それら手段一つひとつについて、それを目標・目的として実現するような手段がさらに幾つか必要になってくる。つまり、目標・目的→手段の作業の内容は、複数の結果への分割とその手段の具体化である。
ただし、手段⇔目標・目的の連鎖は、せいぜい多くても3段階に留めるべきだ。
一般に人は、三段論法より複雑な理屈を直感的に理解できない。そこに誤魔化しの入り込む隙が生じる。4段階以上になる場合、どこかで手段⇔結果の関係が近すぎる、すなわち単なる言い換えに過ぎなかったりしているはずだ。
手段の優劣は、合目的性の高さと避けるべき副作用の少なさでのみ論理的に評価可能だ。
しかしながら、目標・目的→手段がすんなり出てきたとしても、その逆で不整合が生じる場合、手段が間違っているとは限らない。目標・目的を見直しすべき場合かもしれないからだ。いわゆるPDCAサイクルと同じ考え方である。
少し前の党首討論で、鳩山由紀夫がお得意の「友愛」を掲げたのに対し、麻生太郎が概念的により下位レベルの枝葉末節的な受け答えを行ったのが思い出される。「友愛」の良し悪しを別にすれば、先ず理念を掲げるのはリーダーにふさわしく、それに対して枝葉末節の具体論で受け答えるのは木っ端役人的である。ただ選挙となると、何らかの理由で「友愛」を掲げる訳にはいかなかったようだ。
本来の政策論争は、先ず「あるべき国の姿」ありき、でなくてはならない。
最終的な目標・目的を掲げていない手段の優劣を議論しても、結局発散するだけで決して収束しない。
自・民両党とも、それが目論見だろう。
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