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2009年8月21日 (金)

農業、エコ、観光、司法と法律、そして政治(選挙)

昨日2009年8月20日の朝日新聞朝刊第17面のOpinion(オピニオン)欄に4つの「私の視点」が掲載されていたが、根底に共通するものがあるように思えた。

総選挙告示から3日目のこの時期に、この欄の担当者はそれを意図して掲載したのだろうか。私の、偏見に満ちた感想を紹介しよう。

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新聞に掲載された記事から、私が感じたことを伝えるために必要と思った部分を、以下に順次抜粋して引用する。私の感じたことを説明しやすくする様、記事の順番が新聞紙上に掲載された順番と異なる事、それから手で打ち直しているのでミスタイプ・誤変換があるかもしれない事を予め断っておく。最初に『農業』の分を見てみよう。

アグリライフ  農のすそ野広げる水平思考
佐藤 可士和(さとう かしわ)アートディレクター


・・・・知人から千葉県君津市の貸しファームを教えられた。2年前、10坪の畑を借り、月2回ほど通い始めると、驚くことばかり。白菜の種はケシ粒のように小さい。それが、市販のものからは想像がつかないほど大きな葉に覆われた、すごい存在感のものになる。
こう話すと、「農業を楽しんでいるんですね」と言われる。違和感がある。・・・・そもそも「農業」をやろうとは思っていない。畑仕事(アグリカルチャー)をライフスタイルに取り込んだ「アグリライフ」を楽しんでいると言いたい。
10坪で月1万2600円。そう高くない。家族でスノーボードに行けば、リフト代だけでそのぐらいはかかる。・・・・この農園を選んだ決め手は、私たちが通えないときはプロの農家の方が野菜の面倒をすべて見てくれること。だから失敗はない。・・・・自分で植えたものが育つのはうれしい。その喜びが農業の本質だったと気づく。・・・・少しでも体験すると、リアリティーがもてる。・・・・農家の手を借りて畑に触れられる場がもっとあれば良いと思う。行政もその支援に力を入れて欲しい。・・・・私が通う農園は航空会社や旅行会社をリタイアした方たちが農業法人と共に考案し、後継ぎがいない高齢の農家の畑を使う。・・・・「農」は全ての人の命に直結するのに、実際に農業に従事している人や官僚など、関係者だけで論じられていることが多いように思う。いろいろな人の視点が加われば、新たな知恵が生まれると確信する。(以下略)

都市に暮らす人間が、それまで生活体験として触れたことの無い農業に触れる機会を持つ事、それ自体は物理的にも精神的にも世界が広がる良い事と捉えるべき点に異議は無い。従来から農地を小分けに貸し出す「市民農園」の様な物が各地にあったが、佐藤が記事に書いているようなプロ農家のサポートつき貸しファームは、提供されるのが農地ではなく農業体験と保証された収穫であり、それも提供する側がある一定の意図を持ってフィルターしたものにできる点で前者とは異質である。その結果、農業体験の受け手にバイアスのかかった印象、認識、価値観などを植えつける可能性があり、限られた一部の人々の主張に沿った世論が形成される危険性があると思う。佐藤にその意図があったかどうか分からないが、結果的にこういった危惧を裏付ける内容になっていると思える点は批判せざるを得ない。

紹介されている貸しファームを冷静に見れば、「プロのサポートつきで、失敗無し」が売り文句、少なくとも佐藤の場合それが決め手になったと言っているので、梨もぎやイチゴ狩り同様の観光農園の一種と見るべきだろう。違うのは、種蒔きから収穫まで(堆肥や土作りが含まれているかどうか不明)の全プロセスに、要所々々でその区画の借り手として立ち会うか、一部参加する事である。この種のビジネスの危うさは、売り手はオイシイ部分しか見せないし、買い手もそれを望んでいることだ。佐藤は前半で、『そもそも「農業」をやろうとは思っていない。』と言い、費用に関する記述からもスノーボードと同列のレジャーとして捉えている事をうかがわせている。しかし後半になると、「少しでも体験すると、リアリティーがもてる。」と言っている。前半で表明されている認識と対比すれば、この実態は疑似体験であり、意図されたリアリティーである事は佐藤にも分かるはずだ。更に論を進めて「自分で植えたものが育つのはうれしい。その喜びが農業の本質だったと気づく。」と断言している。『そもそも「農業」をやろうとは思っていない。』人間が、農業の本質を語り出すのはかなり唐突で、相当な違和感を覚える。

実は、「喜びが農業の本質」と言う主張が間違っているのではなく、普遍的に正しいことが有害だと思っている。「喜び」は「成功体験」や「達成感」と置き換え可能と思えることから、「農業」を完全なルーチンワークを除く他の職業に置き換えても成り立つ主張に見えるからだ。このように農業に固有ではない「本質」を前面に打ち出すことで、農業の将来を真剣に理を尽くして行われる建設的な議論は封殺され、感性に基づく情緒的議論が支配的にならないか、危惧される。そうでなくても、多くの場合世論を形成するのは理性ではなく情緒であるから、なおさら危うい。

この記事に対する感想の最初に述べたように、多くの人が農業に触れることで、それまでの無関心が解消されるのは望ましいと言う点では佐藤の主張に異論は無い。その意味で、佐藤が言う「水平思考」は、引用内の「いろいろな人の視点が加われば、新たな知恵が生まれる」の部分であるが、正しいと思う。だが、『「農」は全ての人の命に直結するのに、実際に農業に従事している人や官僚など、関係者だけで論じられていることが多い』と言う認識はいただけない。『命に直結』している『全ての人』を関係者の外に置く発想がそもそも違うように思う。

行政の支援が無くても、この種の貸しファームは都市近郊で増えるのではないだろうか。収益性を試算すると、営農するよりも貸しファームにするほうが遥かに高いと考えられるからだ。しかし、「農業」に触れ正確なリアリティーをもつために、「自分で植えたものが思ったようには育たない挫折感」も味わえなくてはならないと思う。

2番目に『エコ』の分を眺める。

エコツアー  推進へ法律の弾力的運用を
広瀬 敏通(ひろせ としみち)日本エコツーリズムセンター代表理事


地域の自然や文化を体験する「自然学校」が世界各地に急速に増えている。国内では約3千校が活動しているといわれている。・・・・政府もエコツーリズム推進法で後押しする姿勢を見せている。
ところが、自然学校の活動やエコツアーがいろいろな法律で違法となる点が話題になっている。・・・・既存の法律の多くが、小さな市民活動的な自然学校やエコツアーを想定していないために、諸外国では当たり前の活動スタイルがわが国では違法な行為となってしまう。
政府はこうした声に応え、規制を緩和し特区を作ってきた。だが、先の例(引用注:この引用では省略した部分にある活動の例示)で対象となるのは・・・・「農家民宿」の認可をとった施設だけだ。同じ体験内容でも一般の自然学校やエコツアーは対象外となる。特定の施設に偏らないほうの弾力的運用が必要だろう。
自然学校の活動を後押ししてくれると期待したエコツーリズム推進法だが、法施行後1年以上がたつのに同法に基づく推進協議会が設立されたのを私は聞いたことがない。(以下略)

広瀬はエコツアーの普及を図りたい一心からこれを書いたのだと思うが、先ず事実関係の正確性が気になった。引用では長くなるので省略したが、自然学校の活動で違反してしまう虞のある法律として道路運送法、食品衛生法、消防法、および旅行業法が挙げられている。その一方で広瀬は、「農家民宿」だけが規制緩和の対象となるとして挙げていたので、インターネットで検索してみた。最初に探し当てた「さが“食と農”絆づくりプロジェクト会議」の資料には「農家民宿」であっても食品衛生法、消防法、旅館業法などの規制を受けると記載されていたが、こちらの福井県の資料に広瀬が違反する虞のある法律に加えて建築基準法と旅行業法において規制緩和が行われたことが記載されているのを発見した。

ここで「規制緩和」の正体が明らかになった。現行法令で違法行為となることの一部を、国会での議決を要する法律改正ではなく、役人の局長・課長クラスの「通知」により合法化する、すなわち現行法令の一部内容を役人の一存で無効化できる、と言うことらしい。

多くの法律、例えば消防法や道路交通法に、頻繁に改正が必要な細目を、法の条文の趣旨を逸脱しない範囲で定める施行令、および施行規則があり、これらの改正については国会での議決を要しないものと承知している。「農家民宿」に関して緩和された規制も、施行令・規則などで定められたものだったのだろう。またある一定の要件を満たした場合、法令に定める義務を減免する事もよくある話なので、ナントカ特区の「農家民宿」に限り規制緩和することの正統性を疑うことはできないだろう。

義務教育の社会化で日本の三権分立を教えていると思う。立法府である国会がルールを定め、行政府である各省庁・地方自治体などがルールに則り国家経営(国民へのルールの強制と取締り=警察と検察、を含む)を行い、司法(裁判所)が行政の行為の合法性を担保する、となっていたはずだ。この程度の素朴さで考えると、現実に国会で決めているのはルールの内守るべき項目(例:道路では最高速度を守れ)のみであり、ルール違反になる/ならないの境目(例:一般道の最高速度は時速60km)は行政任せである場合が多い、と言うか、私にすれば多過ぎるような気がする。

また法令・規則類が定められる場合、国民の安全や健康、財産の保全や経済的利益を保障するなどの目的に対して合理的でなければならないはずである。法令・規則類を新たに定める場合、また改正する場合に、その合理性を立証・説明する責任があると思うが、重要な法についてはある程度行われるものの、それ以外については甚だ不十分ではないかと思う。先ほどから話題にしている「農家民宿」に関して、例えば旅行業法の規制が緩和された根拠が「平成15年3月20日付け国土交通省総合政策局旅行振興課長通知」であることが複数の地方自治体系ホームページに掲載されているが、その「・・・・課長通知」本文を探しても、なかなか見つからない。実際、今回は未だ発見に至っていない。過去にも通達・通知の類をインターネット上で探しても見つからない経験が何回かあった、と言うより、見つけられた経験はほとんどない。行政は、こう言った詳細情報がインターネット上に流通することを、何故か嫌っているような印象を受ける。

インターネットの時代になっても、曲解された「由らしむべし。知らしむべからず。」は生きている様だ。

ここまで来て、『農業』と『エコ』も、実は『観光』だったと分かる。今度はその『観光』の分である。

(記者の視点)
ぼったくり騒動  真剣で早い伊の対応に学べ
南島 信也(みなみしま しんや)ローマ支局長


日本人カップルがローマ市内の有名レストランで昼食代として695ユーロ(9万5714円)を請求された事件を貴に、イタリアでは「ぼったくり」をめぐる議論が続いている。・・・・事情をよく知る関係者によると、フィレンツェには客の国籍によって料理の値段が違うレストランがあるという。仏、スペインは2割増、英国、カナダが3割増、米国、日本には5割増の料金を請求するそうだ。各国の観光客から多数の苦情が寄せられていたはずだ。それが日本人カップルへのぼったくりで表面化したということだろう。
イタリア側の対応は驚くほど早かった。・・・・イタリアは国内総生産(GDP)の1割を観光収入が占める観光立国だ。・・・・危機感が透けて見えた。・・・・日本政府は03年、外国人観光客を10年までに1千万人に倍増させる「ビジット・ジャパン・キャンペーン」をスタートさせた。昨年10月には観光庁も発足。・・・・ぼったくり事件は、残念な出来事だったが、その後のイタリア当局の対応の迅速さと真剣さには学ぶべき点もあると感じた。

この記事を見て最初に思ったのは、昼食代が5割増にされる前、すなわち2/3(=1/1.5)の463ユーロ(6万3809円)だったらぼったくりにはならないのだろうか、と言う疑問だ。逆の言い方をすれば、463ユーロならぼったくりとは思わない人が、695ユーロだとぼったくりだと騒ぐ可能性は低いと思われる。多分、もう少し違う事情が加わっていたのだと思う。

過去にニュース報道された事で私が覚えているのは、この日本人カップルはウエイターが持ってきた料理などの勘定書きが高いとは思ったものの、その金額をクレジットカードで払うことにしたが、決済用伝票にはさっきの勘定書きの金額に更にサービス料が上乗せされていたので激怒した、と言う筋書きだ。ニュースを聞いた時、なぜ注文する前に値段を確認しなかったのか、など、不思議なことをする人がいるものだと感じた印象が残っている。また場所にもよるが、サービス料はウエイターへのチップで、現金で払うときは勘定書きの金額に客のほうで上乗せするが、クレジットカード払いだと一定割合のサービス料を加算した金額で決済する場合があり、サービス料に関する部分に違和感は無く「かわいそうに、君たち知らなかったのか。」との印象もあった。

ここから先は私の想像だが、値段を確認せずに料理などを注文したとして、日本人以外の外国客の場合、最初の勘定書きを見た時に店に文句をつけるだろう。ウエイターで話にならなければ「マネージャーを呼べ!」と言う場面だ。納得するまで店と交渉するだろう。また高額と思いながら払うと言ってしまった後で、どこかに泣き付くような恥さらしな事はしないだろう。
逆にこれまでの日本人客は、高額と思いながら払ってしまっても、金で済むことなら、命まで取られたわけではないし、良い社会勉強になった、と泣き寝入りしていたのではないだろうか。日本人とそれ以外の外国人が入れ替わることはあっても、この2つの行動パターンしか今まではなかったのだろう。
イタリア当局としても、高額(恐らく5割増では足りない)な料金に一旦合意した後、苦情を言う人間がいるとは想定していなかったのではないだろうか。

事実関係はどうであれ、今回のイタリア当局の反応は気味が悪いほど素早かった。悪しきを改めるのに早過ぎる事はない。この点では南島に同感だが、気味悪さの背景が気になる。

ただし、こんな形で記事を批評されるのは、南島にとって甚だ不本意だろう。彼の論点は、ダボス会議での「外国人から見た親しみやすさ」ランキングで日本は133カ国中131位であることを示して、「同ランキング71位のイタリアがこんなに頑張っているのだから、外国人観光客を500万人増やそうと言っている日本はもっと頑張らないといけないのではないか。」と言うことだ。外国人観光客を増やすことを是とするなら、その通りだし、2016年のオリンピック招致を本気で目指しているなら、もう手遅れかもしれない。

以上3つの記事を見てきて共通点に気づくのだが、どの記事も政府=行政に訴えている点だ。実質的に日本社会を動かしているのは行政であると言う、極めて現実的な見方だ。世界の多くの国で行政が社会を動かしているのは事実だが、日本では特に顕著である。

しかし、自らの行おうとしている事が違法行為だと認識し、規制の緩和を行政に働きかけるのは、やはり違和感を覚える。「エコツアー・・・・」の件だ。「農家民宿」の規制緩和で分かるよう、法に則り政令・規則などに依る規制は歴史的に見ても行政の権益であった。しかし、国民に半ば隠れるようにして通達・通知を出して規制を掛けたり緩和したりと言った様な事が許されるべきなのだろうか。私は法学や政治学には全くの門外漢なので、どの様な理屈があり得るか想像すらできないが、それが許される事に強い違和感を覚える。それは国家経営事務的には効率が良いかもしれないが、国民が遵法を行う事を困難にすると考えられるからである。

上記の意味において最後の分は、私が『司法と法律、そして政治(選挙)』と大上段に構えたのに相応しいと思う。

被爆者援護法  科学の限界ふまえ改正せよ
長瀧 重信(ながたき しげのぶ)長崎大学名誉教授


原爆投下から64年の8月6日、原爆症認定を求める集団訴訟の終結に向け、総理が確認書にサインした。訴訟の一審で勝訴した原告を原爆症と認定、敗訴した人でも議員立法で基金を創設して救済するという。
一連の動きは、被爆者救済のあり方を考え直すきっかけになった点で大きな意義がある。だが、二つの問題が潜んでいる。一つは、放射線の人体に対する影響をめぐる判決が、国際的な合意と大きく食い違っていること、もう一つは、306人の原告は救済できても、残る24万人の被爆者の救済は確認書に含まれていないことだ。
放射線の人体影響は、原爆や核実験による被害者の認定、保障などの国際問題に直結するため、国際的な合意が重視される。国連科学委員会や国際放射線防護委員会、国際原子力機関などで、世界中の科学者が最新の研究成果を評価し、統一の見解をまとめている。白血病やがんなどの限られた疾患以外は「放射線との因果関係を認めるにはデータが不十分、不確実」というのが現状だ。
一方、日本の原爆症の認定には、被爆者の疾患が「原爆の放射線に起因すること」が条件。30人の専門家による審査会の検討をもとに、被爆者援護法に基づいて厚生労働相が認定する。認定されなかった被爆者は裁判で因果関係を争い、裁判官が科学的な判断を行う形になっている。
裁判では白血病やがんのほか、心筋梗塞や甲状腺機能低下症、肝炎・肝硬変、糖尿病、脳梗塞、骨粗鬆症、肺気腫、ひざの関節症まで「放射線に起因」と認めた。救済の間口は広いが、国際機関の見解と異なり、一般の医師でも理解に苦しむ。
科学には「不確実」な範囲が多く存在する。一部の不確実な見解だけを採用して、司法の判断の根拠にするのは極めて危険である。科学の限界をふまえた上で「うたがわしきは救済する」「因果関係を否定できなければ認定する」といった司法判断のほうが、国際的にも理解を得やすい。・・・・国際的な見解を逸脱した判断をしても、ほんの一握りの原告しか救済できない制度であれば、裁判をしなくても被爆者を救済できるように、被爆者援護法を改正するべきである。(以下略)

行政の長である総理が確認書にサインした背景には、複数起こされた訴訟の一審が連戦連敗だった、正確には一部敗訴した原告も存在するので、勝訴する原告が一人もいない判決がなかったことがあると言われている。しかし、この様な訳の分からない決着のつけ方は国民の遵法精神を大きく損なわないか危惧される。

法に則り事を行うべき義務を負っている行政の長としては、一般の医師ですら原爆放射線との因果関係が本当にあるのか疑うような疾患まで、裁判官が「科学的」に因果関係があると認めたのであれば、非科学的な不当な判決として断固上訴すべきだろう。しかし、そうしてしまうと投票まで一ヶ月を切った総選挙の結果に悪影響を及ぼすことが避けられない、と判断したであろう事は想像に難くない。また、未認定の被爆者24万人を残したまま、原爆症認定訴訟の幕を引こうと言う意図があったかもしれない。

被爆者援護法を改正すべき事は長瀧により述べつくされている。長瀧が言うような「うたがわしきは救済する」「因果関係を否定できなければ認定する」と言った内容に改正しようと言えば、直ちに財源を問われるだろうが、それこそ政治家の仕事である。国家の支出は優先度の順に行われるべきであり、それを決めるのが政治家だ。今行われている支出全てが被爆者援護に必要な支出より優先順位が高いとは思えない。甚だ不謹慎であることを承知で言うなら、未認定の被爆者の方々の年齢を考えると、累計総額でも定額給付金の規模は遥かに下回りそうな気がする。

長瀧は繰り返し強調するように『科学の限界』とか『科学には「不確実」な範囲が多く存在する。』と、科学が未熟な学問であるように見える事を書いている。現在の工業技術を可能にした科学の成果からすると一見矛盾しているように見えるが、私は二つの意味で長瀧が正しいと思う。一つには科学一般として解明すべき事が残っている限りそれが限界と「不確実」な部分の始まりであるし、もう一つはこの記事が取り扱っている放射線被曝と疾患の因果関係の様に人間の生死に関わるような分野では、更に倫理的な制約から「不確実」にしておかざるを得ない部分が出ると思われる事だ。

科学、特に物理、化学、およびその関連分野では、仮説と実験のセットで「不確実」だった範囲を少しずつ「確実」にし、限界を少しずつ遠ざける手法が確立されている。これは二つの要因、一つは管理された環境で繰り返し実験を行うことが可能である事、もう一つは実験環境(実験室)の結果と現実世界で起こっている現象との関連性を予め知ることができるスケールアップの手法が確立されている事、が可能としている。しかし、原爆症認定に関わる科学では、この様な実験を行うのは事実上不可能だろう。また、天文学のように多数の観測結果により「不確実」だった範囲を少しずつ「確実」にできる科学もあるが、数十万人と言われている広島・長崎の原爆被害者は観測すべき対象ではなく、当分は得られないであろう「確実」にされた結果を適用すべき対象だが、それを待っている時間的余裕はほとんど無さそうである。

ぼったくり騒動の部分で述べた「悪しきを改めるのに早過ぎる事はない。」は、法律のメンテナンスに関しても当てはまると思う。この意味でも、立法府の主役である衆議院議員を選ぶ総選挙は重大事項だ。多くの党が政府と官僚の関係に関わる選挙公約を発表しているが、この事は法治主義をどのように徹底するかに深く関わり、立法・法改正の在り方が問われる。

また、今回の原爆症認定裁判がこの様な形で確定することにより、一般の医師でも理解に苦しむような幅広い疾患が「科学的」に原爆放射線に起因するとした判例が残る。この事が将来、禍根とならないことを祈るばかりである。

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