今日を生きよう
ラジオから聞き覚えのある曲が流れてきた。英語の歌詞だ。曲が終わり「グラスルーツの今日を生きよう」と紹介された。なるほど、確かに歌詞の内容に相応しい曲名だ。しかし、私の記憶にあったのはテンプターズの日本語の歌詞の曲だ。とても印象的なサビの部分、”One-Two-Three-Four Sha-la-la-la-la-la ...”は聞き間違い様がないので、どちらかが他方をカバーしたのは確かだ。だが歌詞の内容はずいぶんと異なっていたと思うが、余り自信がない。本当にテンプターズの曲だったのだろうか、また彼らの日本語版の曲名は何だったのか、とても気になった。
インターネットで検索すれば、直ぐに調べはつく。その結果は、ここしばらく私の頭に浮かんでは消える、日本語と外国語、特に英語との関係に対する懸念を、意識の表面に浮上し続けさせてしまうものだった。
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確かにテンプターズがグラスルーツの曲をカバーしたものだと判明した。曲名も同じ「今日を生きよう」だ。うれしいかったのは、私の記憶の通りヴォーカルがショーケンだった事だ。だが、オリジナルはイタリアで活動したイギリスのルーキーズと言うバンドで、”Piangi Con' Me”と言う曲名で歌詞もイタリア語だったらしい。イタリア語は少しし分からないが、オリジナルの曲名は英語・日本語バージョンとは少し違っているように思う。
本題の英語と日本語の歌詞だが、私の記憶に反して大筋で同じ内容である。想定している状況も同じ、「今日を生きよう」と言う結論に達するのも同じ。だが、私が異なると感じた原因も発見できた。全体としての印象が全然違うのだ。
どちらの歌詞も自分(I)、カップルの相手(you)、そして世間(peopleまたはthey)について言及されているが;
- 英語の歌詞は、最初に世間の人々のことを歌い、それとの対比で自分たちの世界を歌う流れになっている。
- 日本語の歌詞は、言語の特徴として主語が省略されるので明確ではないが、冒頭から自分たちの世界に終始し、僅かに「昨日のことも今日のことも悩むことなく」と否定形の表現の裏側に世間を暗示するのみとなっている。
日本語の歌詞は、私には英語の歌詞に比べ圧倒的に叙情性が高く感じられた。しかし、それが英語の歌詞が叙事的だったり論理的だったりすると言う事にはならないと思う。私が日本人だからそう感じるのだと思うし、仮に日本語の歌詞を英語へ忠実に翻訳したら、幸運なら極めて難解な詩として理解されるかもしれないが、大抵は英語として意味を成さないだろう。英語で考える「英語脳」に対しては、英語の歌詞のような組み立ての方が情に訴える力が強い、と考えるべきなのだと思う。
ちなみに、日本語の歌詞は「訳詩」ではなく「作詞:なかにし礼」だ。さすが大御所、原詩の大筋における意味を損なわず、またその要素をほとんど失わずに、見事な日本語の詩を作り上げたものである。ただし「作詞」としたのは彼の見識なのか、何か著作権上の問題によるものなのかは不明である。
翻訳は難しい。原語を「意味」と言う個人の頭の中でだけ通用するメタ言語に一旦移し、それを使って目的の言語で作文することになるが、通常単語と意味はN対Nの対応関係であり、その組み合わせは言語により異なるので、どんなに注意して翻訳しても原語の持っていたニュアンス全てを翻訳後まで保つのは、多くの場合不可能だ。そのため、同じ内容の契約書などを2ヶ国以上の言語で作成する場合、優先する言語を1つ決めて明記し、翻訳の際に起こるかもしれない意味が食い違うリスクを担保している。
歌詞に関しては、過去に「蛍の光」や「故郷の空」に原詩とはほとんど無関係な歌詞をつけた場合がある。これらの原詩はどちらもロバート・バーンズ(Robert Burns)によるもので、スコットランド語である上、スコットランド人の感性で綴られているため、正確な意味は捉えにくいようだ。中途半端に翻訳することを諦めたのは、ある意味潔く、正解だったのではないだろうか。
またこちらのWebでも、翻訳の際に意味が失われる危険性に対する注意喚起の例にロバート・バーンズを引き合いに出している。言わんとしている事は頷ける。しかし他の部分で例として示した『日本の刃物を販売する会社が米国で販売した製品に、「注意」として、Caution: Blade extremely sharp. Keep out of children.(注意:刃物注意。子供から遠ざかるように。)と載せたことがありました。』は、「Keep out of」がおかしいと言う指摘のようで、多分「Keep the blade away from children.」の様な表現にしろと言っているのだろうが、「Blade extremely sharp.」の部分に対する日本語はどうなったのだろうか。このページは外国人の英会話教師が英語で書いたものを誰かが日本語に翻訳したものと思われる。翻訳に伴う危険性の例を示すため、意図的におかしな訳を紛れ込ましたのかもしれない。
これまで述べたように翻訳には常に不完全性が伴うものだが、更に悪い事に、昨今のIT業界では日本語への翻訳に手抜きが目立つ。
典型的な例はMicrosoftの一部技術情報が機械翻訳による日本語で提供されていることだ。Microsoftは利用者の便宜のための措置であり、正確な情報は元の英文を参照するよう、明記している。つまり「機械翻訳でも、無いよりマシだろう」と言っているが、これは違う。機械が翻訳した日本語の訳が分からない場合があるのはむしろ無害だが、原文とは違う意味に「分かってしまう」場合があるので厄介なのだ。
また外国製ソフトウエアの日本語化の過程でも、日本人なら絶対見逃さないような誤訳が平気で紛れ込んでいて、何回かアップデートされる過程でも全然直されないことが目に付く。具体的な例として、Intel(R) Matrix Storage Consoleのハードドライブ情報で、「現在のシリアル ATA 転送モード」が「生成1」または「生成2」と示されるが、これは本来なら「世代」と訳すべき「Generation」の誤訳だと思われる。
これら翻訳の手抜きが横行するのは、日本はIT関連マーケットとしてはもう重要ではなくなった事、および、これと関連するが、日本向けIT製品および関連ドキュメント作成に日本人がほとんど関わらなくなってきた事が原因だと思われる。
IT市場としての日本の地位低下は特に説明するまでも無いだろう。IT製品の日本語化に日本人が関わらなくなったのは、日本人の人件費が高い事で説明がつくかもしれないが、それだけではなく、技術的な背景も大きいと思う。
Windows 3.1からMillenniumまでのOS系列では、日本語の処理にShift-JISコードが使われており、OS・アプリケーションとも文字列処理、特にファイルパスに関わる処理は特別な配慮が必要だった。従って、日本語化にはメッセージなどのリソースの翻訳に加え、プログラムロジックの変更・追加が伴った。そのため、海外で開発されたIT製品の日本語化は、ほとんどの場合日本国内で行われていた。多少人件費が高くなっても、日本語に依存するプログラムロジックの検証を日本人IT技術者以外が行うのは困難だったからだ。そのため、メッセージの誤訳などは最終製品が完成するまでに発見されていた可能性が高い。また、日本市場だけをターゲットにしたパッケージソフトウエア開発会社が存在する余地があった。
Windows NT 3.5からVistaに至るOS系列では、開発当初からUnicodeによる多国語対応となっており、日本語はその内の1つでしかなくなってしまった。実際には英語版や日本語版があったわけだが、それはメッセージ/ヘルプテキストのようなリソースやフォントの違いと、周辺機器との文字情報のやり取りで8ビットASCIIやShift-JISが使われる場合があるため、デバイスドライバーのようなインターフェイス部分のロジックに違いがあったからである。内部的なプログラムロジックに関しては、特に凝った造りにしない限り、同じものがどの(人間の)言語でも使えるようになった。実例として、英語版のWindows NT 3.51サーバーと日本語版Windows 95クライアントの組み合わせで、サーバー側のコンソールを除き、ファイルパス名含め日本語は問題なく使える。そのため、日本語化の過程で誤訳が紛れ込んでも、原理的にプログラムの機能は損なわれない(プログラム内部で英語専用フォントを指定していたりして例外的にはまる場合がある)。従って、日本語化は機械翻訳や日本語を使える外国人、またはITの知識の無い翻訳者で済んでしまう様になって来たのだ。
第二次世界大戦終結時点で、米国が唯一無傷の超大国として残った結果、アメリカ英語(米語)がLingua Franca(共通の母語を持たない物同士の意思疎通に使われる言語)として台頭して来た。しばらくの間、フランス語も外交の世界では文字通りLingua Franca(イタリア語で「フランク語」の意)だったが、インターネットの普及に伴い、米語が席巻することが確実になった。ちなみに、日本の学校で「英語」として教えられているのは、実は米語である。CNNやAFNの聞き取りはさほど苦労しないが、しばらく前にTV放映されたハリーポッターの台詞には参った。これは、かなり訛りもある特異な例ではある事にも因るが、発音以外に単語の綴りや慣用される表現も結構違う。
最近、小学校で英語、いや米語を教えるかどうか、議論になっている。余裕があるから英語でも、と言うことではなく、ゼロサム的な状況になっているのだと思うから、これはダメだろう。議論の余地無く最優先すべきは国語であり、次に算数だ。国語、すなわち日本人にとって母国語の能力は、他の教科を勉強する手段としても必要だし、論理的な思考を養うため、算数は重要だ。端的な例として、国語の能力が劣るものは、算数の応用問題が苦手なはずだし、算数の応用問題が得意な者は、苦手な者より読み易い文章を書ける場合が多いと思う。
理科、社会、および家庭科を統合して、生活科のようなものにできたらいいと思う。小学校で習う理科と社会は、日常生活をより賢く行うため助けになるべきだ。米語を入れるかどうかは、ここまでのカリキュラムで余裕があれば入れればよい。それも、会話ではなく読むことを中心に据える。読めるようになるために文法も教える。これから先、米語を読めるかどうかが、実生活を行う上での有利不利に直結するからだ。
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それはそうと、今でも「This is a pen.」から始まるのだろうか。英語にせよ米語にせよ、これはかなり例外的な文章だ。be動詞は極めて例外的な変化をするし、不定冠詞を定冠詞よりも先に教えている。教師がペンを手に持ち、教壇に立って説明することを想定しているなら分からなくもないが、どこまでが「これ」でどこから「あれ」に変わるのか、相当高度な抽象概念だ。ある意味突っ込みどころ満載なので、その全てを題材に授業を進めると、1学期くらいは要りそうだが、実際はもっとさらっと流されていたように思う。「I run.」→「Run!」→「Do you run?」、とか、「I go.」→「Where?」→「Where do you go?」→「I go to the school.」みたいな、単純でありふれた表現から入って、自然な流れで文法を発展させる方が良い様な気がする。また「I go to school.」と「I go to the school.」の違いを教えるついでに、どちらが普通でどちらが例外的かも教えるべきだろうし、そこから慣用句に発展するのも分かりやすいと思う。
母国語を話し始めるのと同じくらいの時期から、外国語を話し言葉として教えるのはアリだろう。複数の言語が共存するような国では、自然と2ヶ国語以上話せるようになる例は稀ではない。しかし、一旦母国語をある程度話せる年齢に達した人間に外国語を教える場合、抽象的な意味を十分取り扱える程度まで母国語による言語能力が発達していないと学習効果は上がらないだろうし、話し言葉から入るのは効率的ではない。
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たくさん読めば自然と語彙が増える。しっかりした文法と豊富な語彙があって初めて、聞き取りもできるようになるし、話せるし書ける様になるはずだ。話す場合と書く場合、一番重要なのはその内容を一旦日本語で考えた上で翻訳する様なやり方をいつまでも続けるのはダメだ、と言うことだ。翻訳の限界は、もう語り尽くしたと思う。導入や初期の練習としては翻訳的アプローチ以外に有効な手法は思い浮かばないが、英語/米語を、ちゃんと話せる/書けるようになるには、「英(米)語脳」の完成を最終目標にする以外に無い。
米語を話せても書けない者は、日本以外では少なくない。ましてや、人に感銘を与えるような文章を書ける者は、母国語においてすら少数だ。そこまでの能力が必要とは言わないが、日本がまともに世界と付き合っていくためには、少なくとも学術論文やビジネス文書程度のものなら米語でスラスラ書ける者が生産人口の何パーセントか必要である。また、その内のせめて1/3位は、米語で啖呵を切れる程度の話力(と度胸)が欲しいと思う。これらが無いため、今まで何回も日本は外交的失敗を繰り返しているような気がする。
体育、音楽、図工は、以上のカリキュラムを十分行っても余裕があるなら、やってもよいが、基本的に義務教育で必須教科として教えることには疑問がある。その方面に興味・才能がある者は、放って置いてもそちらの方向に進むだろうし、苦手な者にとってはいじめに近い苦痛でしかない。ただし水泳だけは、個別指導してでも、ちゃんとできる様になるまで教えるべきだ。実生活で生死を分ける場合が無いとも限らないからである。
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