体調を崩し気力も体力も萎えてしまいblogをお休みしている間に、民主党政権が日本にも誕生し、’00年代が終わり、年が変わって’10年代が始まり、もう1か月以上経過して暦の上では春になってしまった。啓蟄には未だ間があるが、目覚めることにしよう。
この国で、普通選挙で政権が交代したのは初めてらしい。この国の在り方を変えたいとの思いが国民の大半に及んだのか、単に前政権に嫌気がさして目先を変えてみただけなのか、(私は前者だと思いたいが)いずれにせよ国民の総意が何らかの「変化」を選んだ。総体としての日本国民のものの考え方(国民性とか民族性といった言葉があるが、個性を否定しているように感じられるので、あまり適当でないかもしれないが「社会風土」を用いる)が少し変わったことの現われだろう。しかし、「国の在り方を変える」・「嫌気がさした」、どちらであっても表面の薄皮1枚変わった程度で、根本的な部分はそうやすやすとは変わらないと思う。「国の在り方を変える」のであれば、その根本的な部分をこれから変えていかなければならない。
今回のテーマは、ぜひ変わって欲しいと私が思っていることの一つである。 きっかけは、2010年2月2日の朝日新聞東京本社版朝刊に載った「新幹線事故は整備ミス(パンタグラフ/ボルト付け忘れ)」(1面)・「単純ミス防げず(新幹線事故/主任も見逃し/点検用紙なし)」(30面)と大見出しをつけられた(カッコ内は小見出し)記事である。新聞ほか諸々のマスメディアは社会風土を映す鏡であると同時に、社会風土に影響を与えて変化を起こす、または現在の社会風土を強化する働きがある。私の意見では、今回の記事は全体としては本来あるべき姿にまとまっているようだが、実は端々に改めるべき社会風土を強化するような表現が埋め込まれている。恐らくそうではないだろうが、もし意図的だとしたらサブリミナル効果を狙ったようなもので極めて悪質だ。
予めお断りしておくが、「言葉尻を・・・」の表現を否定的な意味によく用いる人は、この先を読まないことをお勧めする。私は、神にせよ悪魔にせよ、重要なことは細部に宿ると固く信じているので。
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